南の猫の新西蘭雑記

日本も結構好きなのですが、根っこがこっちに深いです。

 Tさんによる添削



11月29日に一部紹介したTさんのご指導ですが、この際、全部載せてしまいます。

1. 「の」に「切る」力はありません。


2. 「切れ」のない体言止めはいけません。


3. 連体形と終止形が同形の場合に意味や語呂がおかしくなければ、連用形にすることで、下の「五」の体言との間に「切れ」が発生します。


4. 助詞を変えて、「切れ」を作ります。


5. 入れ替えて、スムーズに。


6.よい例



「日本語や母国語なれどむずかしき」

南の猫


ちなみに、これは俳句ではありません。季語がありません。俳句の形を借りた、たんなる独り言。ブログペットの戯れ言を俳句と呼ぶのは、私も少々抵抗がありましたが、Tさんが知ったらきっとひっくり返ってしまう気がします。楽しんで言葉で遊ぶのに水を刺すつもりはありませんが、何事も極めるにはある程度の技の習得が必要というところでしょうか。


「季語」が命の俳句だと思ってましたが、ここに来て初めて(^^;)「切れ」を教えていただきました。そこでうろおぼえの昔の俳句を思い出してみると、
「古池やかわずとびこむ池の音」

「すずめの子そこのけそこのけお馬が通る」

季語は当然明確。そして、見事に「切れ」てます。「切れ」で、心地よい間が入り、十七字(プラスアルファ)から懐かしい日本の情景が無限に広がっていきます。芭蕉の句でいつも思い出すのは、近所の神社。ぼけた朱色の鳥居をくぐり、さほど大きくない境内には、むきだしの土と不規則な形の丸い飛び石。たどっていくと左手においなりさんの小さなお堂。右手には、大きな樹と、鉄棒と、プランコと、滑り台。支柱は木材でした(たしか、もうなくなっていたと思います)。そして、正面の賽銭箱と紅白の太いひもをふってならした大きな鈴。蝉の声、境内の下にいた蟻地獄、裏の林の蚊の群れ。夏休みのラジオ体操……池の波紋のように、ゆっくりと波打ちながら広がり続ける心象風景。う〜む、やはり本物は深いです。