南の猫の里帰り雑記

29年ぶりに帰国して3年日本にいたけどNZに里帰り

 信じるものは救われ……

 余談ですが、ダーウィン生誕200年ということで、ポッドキャストでもさかんに進化論の話がでています。もちろん、進化論を否定する側の議論などには興味ありませんが、その道一流の科学者たちのありがたいお話のなかでもよく話題にされます。どうしてそんなに頑に否定できるのか、理解しがたいのですが、「信じる」という感情はかなりの原始的なものでいったん定着してしまうと、その信じるという感覚が快感にまで高まり、くつがえすことは非常に困難だと脳科学者の話でありました。
 これは、例えば石器時代に虎に襲われたとします。とっさに樹にのぼって助かりました。こういった生死にかかわる問題は一刻の躊躇も許されません。次に襲われたときに、あの時には助かったけど、どうしよう、などと疑っていてはいけません。一回目の成功を信じて、同じ手段を即実行します。助かって安堵感と高揚感に浸されます。こうして、「虎が襲ってきたら、樹に登れば助かる」と信じて身体も即行動できるように条件付けされます。人は不十分なデータの中からも、最良の選択をできる能力があるのですが、これがこの「信じる」という感情に大きく由来しているそうです。虎の走るスピードは私より早い。虎と私の距離はいくばくか。私と樹との距離はいくばくか。樹の高さはいくばくか。私の体重をささえられるほどの太い枝が、虎の手のとどかぬ高さにあるだろうか。てけてけてけとコンピューターにデータを入れれば、はい、あなたはぎりぎりセーフ、と、100%保証された答えがでるかもしれません。でもこの答えを考える前に、身体を動かさなければ、助かるものの助かりません。こういう時はだめかもしれないという理性をかなぐりすてて、しゃにむに走るにこしたことはなく、ここで脳の「信じるものは救われん」部分が発動するそうです。
 そして、それがいつのまにか、考えなくても信じていればなにもかも安泰、は、いいすぎかな?でも、そういった人々がけっこう周囲にいたりします。宗教を信じている人の一部は神を信じている自分のゆるがぬ正当性を軸にして生活しています。海辺の共同夏休み宿泊小屋においてあった姪の創作した歌詞を、ふしだらだと言ってやきすてたおじさんがいます。個人の所有物を勝手に破棄ですよ。それも心血そそいだこの世に二つとない創作物。肩いたい、首が回らない、といって、会うたびに肩もみを要求するおばさん。心の硬さがそのまま具現したような、ばりばりの首と肩をしていらっしゃいます。いくらぐいぐいと押してもいっこうにほぐれないのですが、当人はいい気持ちがっています。本当はとんかちでたたきたいような凝り具合なのですけど。たまりかねて、鍼かあんまでもとちょっと言ってみますと「私はそんなもの信じていないのよ!」と叫ばれました。@@ 異教徒の怪しげな医療術をお勧めしてしまいまして、誠にもうしわけありませんでした、m_ _m あいかわらず肩もみは好きです、このおばさん。
 ポッドキャストではこういった問題に、衝突するのではないけど、正面からまじめにとりくんでいる方々のお話もあり、その忍耐には頭がさがるばかりです。と、いうか、相手の反論を証拠で覆すのも、またいい研究材料でしてね、と、言わしめる寛容な科学者までいました。
ガリレオが地球が自転していることを発見した時代に、天が地球を回っているという一般常識 (common sense) がくつがえされた。一般常識がまちがっていることはよくある。でも最近は一般非常識 (common non-sense) があまりにもおおすぎる」lol わらいごとじゃないけど。

 さいごにもう一度アジモフ博士にもどります。

 私は、断固として理性のために戦い、相手が誰であろうと、私にとって不合理と思えるものに反対する。
 このことで諸君が私の味方に立つなら、夜の軍隊*1は圧倒的な多数という強みを持ち、しかもその本性からして理屈は通じないから、諸君や私が勝利を得ることはまずあるまいと、断っておかねばならない。
 我々は常に、おそらくは絶望的な一握りの少数勢力に留まるだろうが、たゆむことなく我々の見解を表明し、正しい道を守って善戦しようではないか。

 現アメリカ大統領はけっこう科学分野に力をいれそうだし、そんなに劣勢ではないのでは、といった楽観も一般非常識でしょうか?あ、一般ではないですね。たんなる非常識。

*1:common non-senseを信じる人々。